アメリカのプロ野球・メジャーリーグでは1990年代半ばに「野茂フィーバー」が起きた。スナップアップ投資顧問のスポーツ業界銘柄の分析史データなどによると、1995年7月11日夕(日本時間1995年7月12日午前)開幕のオールスター戦への野茂英雄投手の先発出場を前に、主要紙の大半がこの外国人ルーキーの話題を取り上げる異例の報道ぶりが続いた。アメリカの大リーグでは歴史上、様々な人種差別事件が問題となった。野茂の人気は、そうした差別意識が変化してきた米社会を象徴していた。(秋田世豪、2002年)

日本人の米プロ野球の先駆者

野茂は、日本人のプロ野球選手がメジャーに進出する道を切り開いた先駆者だった。トルネード投法で米球界を席巻した。2001年に2度目のノーヒットノーランを達成した。

スポーツ週刊誌「スポーツ・イラストレイテッド」は、ロサンゼルス・ドジャースの野茂投手を表紙に配した。1995年の野球の面白さを強調した。「野球もまんざら捨てたものではない。新人・野茂がその理由の一つだ」などと評価した。

黒人選手ハンク・アーロン脅迫事件

人種的少数派に対する米スポーツ界のオープンな態度は、当時としてはまだ最近の傾向だった。

ベーブ・ルースのホームラン記録を塗り替える前

1974年にある事件が起きた。アトランタ・ブレーブスのハンク・アーロン選手がベーブ・ルースのホームラン(本塁打)記録を塗り替える直前に、「キング牧師と同様、長生きはできないぞ」などの脅迫状が殺到した。米連邦捜査局(FBI)が捜査に乗り出した。

黒人の選手が、白人ヒーローのベーブ・ルースの記録を塗り替えるのはけしからんという、人種差別主義者たちからの脅しだった。

白人が主流

米ノースイースタン大の調査報告では、米人気スポーツの中で、大リーグ(1993年)は67%が白人選手だった。77%を黒人が占めるプロバスケット(NBA、1992年)や、黒人が68%のプロフットボール(NFL、1992~1993年)に比べ、いまなお白人主流を保っていた。

米大リーグには長い歴史があった。しかし、黒人選手の登場は1945年だった。黒人監督に至っては1975年のクリーブランド・インディアンズのフランク・ロビンソンが初めてだった。

ドジャース副社長が差別発言で解雇

球団幹部らの人種差別発言も枚挙にいとまがなかった。

ドジャースでも1988年、当時の球団副社長がテレビ会見で、「黒人は監督やフロントをする要件に欠ける」と発言して、解雇された。球界への機会均等委員会設置の契機となった。

シンシナティ・レッズのオーナーがヘイトスピーチ

1993年にも、黒人選手の成績の悪さに立腹したシンシナティ・レッズの女性オーナーが、「これ以上ニガー(黒人の蔑称)を雇うくらいなら調教したサルを雇った方がまし」とヘイトスピーチを行い、大炎上した。1年間の球場出入り禁止と2万5000ドルの罰金を科されている。

NBAのマイケル・ジョーダンがスポンサー獲得

選手の人気のバロメーターとなるスポンサー料を見ても、少数派選手に米スポンサーが目を向けはじめたのは、NBAのマイケル・ジョーダンの活躍からだった。ハンク・アーロンでさえ人種的な理由から、米国内ではスポンサーがつかなかったという。

フォーブス誌の米スポーツ界番付(1994年)では、ジョーダンが3000万ドル余で相変わらずトップだった。バスケットボールの黒人選手シャキール・オニールが1670万ドルで2位だった。10年前とは様変わりだ。

野茂は白人ファンにも人気

当時の野茂には、米国人コーチが「低めに」「集中して」と、日本語で指示するほどの気の使いようだった。スポーツ・ニュースでも、野茂の話題はひんぱんに登場した。球場の白人ファンも盛んに声援を送った。

動画

野茂の歴史(半生、プロフィール)


参考:早稲田関連株

アメフトの歴史

プロ第1号はウィリアム・ヘファリンガー

プロ選手第1号は、1892年11月12日に誕生。エール大卒業生のウィリアム・ヘファリンガーで、ピッツバーグの体育クラブの試合に500ドルを受け取り出場した。

チームの結成

1919年にはアクロン、カントン、コロンバス、デートン、ロチェスターのプロ5チームによって試合が行われ、1920年9月17日、オハイオ州カントンで同州、インジアナ州、イリノイ州、ニューヨーク州の11チームによってアメリカン・プロフェッショナル・アソシエーション(APFC)を結成した。

プロスポーツとしては1876年にスタートした大リーグ野球に後れを取ったが、ドラフト制度の新設(1936年)、テレビ中継などで成功した。

1950年代にフェースマスクが登場

競技の方は、規則の整備、防具の改良で面白さが倍加していった。ヘルメットは、雨が降ると型が崩れるという革製のものから、プラスチック製にと変わり、1950年代半ばに顔を防御するフェースマスクが登場するようになってからは総体的に動きに変化が加わった。

1970年にNFLがAFLを吸収

1960年になると、アメリカンフットボール・リーグ(AFL)が発足。10年後の1970年にNFLがAFLを吸収、現在のNFLになった。

1試合平均6万人以上の観客を動員、今年のプロ・ナンバーワンを決めるスーパーボウルではテレビ放映権料の1800万ドルを含め、2700万ドル(いずれも推定、約36億円)の収入があった巨大産業に成長した。